
『ドラゴンボール』読者が全員すぐれている訳ではないが、ダメな人は総じてドラゴンボールを読んでいない。
これは職場でダメな人の指導をしていて最近気づいた事だ。
ダメな人はそれぞれ独創的な世界観を持っているが、概ね次のような共通点がある。
■ダメな人の特徴
①自己実現ができていない
②礼儀・礼節をわかっていない
③謝らない
どういう事か?もう少し細かく見ていく。
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①自己実現ができていない
自分は何者で、何のために生まれ、どのように生きるのか?
哲学者や宗教家に限らず、人間として生きていく上で究極のテーマであるはずだが、ダメな人はまず自分に向き合うという事ができていない。
自分を最も自分たらしめている本質を見極め(思索義理)、見つけた自分の良いところを育てる(涵養本源)という事を繰り返し、習慣化していくことで「自己研鑽」或いは「人格の陶冶」に繋がっていくものである。
自分に向き合うという事は当然自分のダメな部分をも直視するという事であり、これは心に傷を負ったり挫折を味わう場合もある。
自分のコンプレックスや心の闇に目を背けずしっかり折り合いをつけて生きていくべきところだが、どうやらダメな人は傷付くのが怖くて自分の本質から逃げてしまった人達なのである。
ダメな人は自分と言う座標を正確に認識していないから、根拠のないプライドだけが異常に高くて他人に対しては攻撃的で自分が責められるのは大嫌い、悪い事は全部他人のせいで、自己主張ばかり激しくて他人の意見は聞き入れない。
こんな事は家庭教育や義務教育、せいぜい高等教育の過程で各々学んでから社会に出てくるはずなのに、最近これがすっぽり抜け落ちているぶっ飛び新人がどんどん増殖していると感じる。当然お話にならない。
どこも人手不足で困っているが、「人がいない」というより「できる人がいない」のだ。賃上げばかり騒がれているが、カネを払うに値しない無能な労働者が全体の質を下げてしまっている点も並行して改善しなければ意味がないのだ。
②礼儀・礼節をわかっていない
相手を思いやる心が「仁」であり、それを形に表したものが「礼」である。
人間が社会的動物である以上当然備えておくべき概念であるが、ダメな人はまず上記①のように自分にすら向き合えていないので、他人に真摯に向き合えるはずもないのである。サービス業の適正があるはずもなく、社内のチームワークでも連携が取れず和を乱す存在である。
③謝らない
これも①②ができてないので当然だが、ダメな人は自分がミスして問題が起こっても謝らないし、形式上お詫びの言葉を口にしてもそれはうわべだけであって心からの謝罪ではない。
ダメな人は基本的に何でも人からおんぶに抱っこ与えてもらって当たり前と思っていて、誰かがしてくれた事に気付いて感謝する事もない。例えば休憩室のポットのお湯を使うけど補充せず、補充してくれた人にお礼は言わないが、お湯が切れていたら自分がキレて沸騰する人、どこにでもいるでしょ?
人にしてもらって当たり前の事なんて何ひとつ無い。
誰かのささやかな親切に気付いて「ありがとう」を伝えられる人になりたいし、そういうチームや職場は、強い。
感謝を忘れると謝罪を忘れる。感謝をしっかり伝えられる人は謝罪も誠実にできる。感謝と謝罪、どちらも「謝」でしょ?根っこは同じという事。

■義務教育で『ドラゴンボール』を必修科目にしよう!
ダメな人は総じてドラゴンボールを読んでいない、と冒頭に書いた。
前項でダメな人の生態について語るとき、ソクラテスやパスカルやアリストテレス、或いは孔子の教えや禅、さだまさし等の哲学を学んでいなければならないような言い方をしているが、実際我々多くの一般市民はそのような学生生活を送ってきた訳ではない。アホな少年時代をヘラヘラと生きてきたのだ。
ただし今の子と決定的に違うのは、ドラゴンボールとともに生きてきて、悟空たちと一緒に強敵と戦ってきた点だ。難しい哲学書を読まなくても、人生において大切な事はドラゴンボールから学んでいったのである。
①自己実現
自分に向き合い、自分を正確に把握し、自分を高めるという事は、ドラゴンボールの作中で一貫して描かれている。
悟空に限らずピッコロもベジータもみんなそうだが、強くなるために己の限界を極め、修行で鍛えて壁を破り、心も体も成長し続けている。
ドラゴンボールを集めて「オラを強くしてくれ」とか、ピッコロならナメック星人と片っ端から同化してくるとか、強くなるという目的を達するだけではなくて、強くなるために修行で自分を鍛える、というプロセスもごく当然の事として重視しているのだ。

また自分や他人に向き合う過程で悩み苦しみながら正しい道を模索していくような描写も数多い。天津飯、ピッコロ、ベジータなど、凶悪な敵として登場したキャラクターが悟空の影響を受けて改心していく姿がまさにそうだ。
ナメック星でギニュー隊長が悟空の体を乗っ取ったシーンでは、所謂「心技体の合一」の重要性が勝敗のカギとなっているが、こういう概念も最近のダメな人には欠けている部分である。

それからダメな人は自ら学ぶ事ができないだけでなく人から教わる事もできない。人に教えを乞う態度じゃないし、いくら丁寧に教えても「いや俺はこう思うんすよ」などと持論を展開して全然教えた通りやらないし、失敗したら「教え方が悪い」などと責任転嫁する始末。
人に教わる時には「守破離」という段階がある。
守 師匠の教えを守り師匠の流派を会得する
破 他の流派についても学んでみる
離 そして自分自身の道を切り拓く
「守破離」という用語を知らずとも、『ドラゴンボール』を読んでいれば意味はわかるはずだ。
悟空は亀仙人の下で修業したのち、カリンさま、神様&ミスターポポ、界王様など色々な師匠と出会い修行して新しい技を習得するだけでなく、ライバルの技をも良いものは積極的に取り入れながら成長していき、魔人ブウを倒した後の最終回編でついに亀仙流の道着でなく悟空オリジナルの道着を着るようになる。

悟空とともに生きてきた人なら「守破離」の「守」「破」「離」がそれぞれ重要なプロセスである事を当たり前の事として感覚で理解しているが、ダメな人はそれが分からないので着任していきなり俺流を押し通す事をヨシと思ってしまうのだ。作業手順を全員で共有して連携をとっている職場において、俺流は邪魔なだけなのだが、ダメな人にいくら言ってもムダなのである。
②礼儀・礼節
悟空は自身が常に己の限界に向き合い修行で強くなる生活に身を置いているため、自分より強い相手に出会った時には「おめえはもっと修行してんだな」と相手の努力に敬意を表し、「オラももっと修行しなきゃ」と切磋琢磨する。
ダメな人が自分を高める努力もせず他人をひがむばかりで、でもマウントは取りたいから他人のあら探しに終始し他者を貶めて相対的に自分を上にしようとするのとは真逆である。
『ドラゴンボール』は死闘を繰り広げている敵同士であっても相手への敬意はしっかり持っているし、基本的にフェアプレーを重んじている(地球ごと吹っ飛ばせる破壊力を持ちながらも肉弾戦にこだわるところとか)。戦闘力の低いキャラクターに対してもしっかり敬意をもって接している。難しい言葉で説明せずともごく自然に礼儀や礼節を子供たちに感覚的に教えているのがドラゴンボールなのだ。
③感謝と謝罪
まず仮説を立てて、実験し、結果をフィードバックする、というのが科学的な考え方の基本であるが、ダメな人はこれができていない。自分のやった事の結果を反省しない生き物なので改善する可能性が無いのだ。
例えばセルを倒すために「超サイヤ人をさらに超える」というテーマで試行錯誤するシーン。ベジータとトランクスはパワーに偏った新形態を編み出しセルと戦うが負けてしまい、なぜ負けたか二人とも理解したはずなのに、「ではどうすれば勝てるのか」というフィードバックにおいてベジータとトランクスで差が出ている描写がある。悟空はセルと戦う以前の修行の時点ですでにパワー特化型の変身では勝てないとジャッジし、通常の超サイヤ人を極める道へと軌道修正している。ベジータは自身の「超ベジータ」の失敗を反省しているからこそ、悟空を見た瞬間に悟空のやろうとしている事を理解できているが、トランクスは反省が追いついていないために「悟空さんはさらにとんでもない変身をするのか?」などとトンチンカンな発言をしてベジータにたしなめられる、といった場面である。





究理究明、実践、省察、その繰り返し。何事も反省から次につなげていく事が大切であり、正しく反省できる人は謝罪もきっちりできるのだ。

迷惑をかけても謝らないダメな人は、そもそも自らの行いの結果を反省しない人なので、謝る以前に「悪いと思ってない」のである。
ここまで見てきたように、現代社会で増殖している「ダメな人」に欠けている成分は、人格形成に大きな影響のある義務教育段階で『ドラゴンボール』に親しんでいれば感覚的に身につく可能性がある。
この国の未来を教育から立て直すために、私は、義務教育で『ドラゴンボール』を必修科目とする改革案を提唱する。
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